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埋もれた歴史遺産「巨石のにわ」

 

 長崎公園内の、六角堂という名の東屋の近くに、昔からあった、巨大な石が無数にそびえるエリア。

 

 

このような巨大な石がなぜいくつもあるのか?

 

これらの石組みには何か意味があるのか?

 

記録がなく詳細がわからないまま、これまで公園内の一部として埋もれてしまっていました。

 

 

今この石組みが、貴重な歴史的遺産である可能性が出てきました。

 

日本庭園の研究者である長崎大学教授の五島聖子先生によりますと、

これらの石組みは日本庭園の跡だと考えられ、

元々この場所にあった巨大な岩を彫刻して作庭した(日本庭園の通常の作庭法ではない)

非常に珍しい日本庭園跡地との事。

 

 

『長崎千年の夢・諏訪の杜千年』プロジェクトの一環として、

この「巨石のにわ」の詳細を専門家の皆様の力をお借りしながら解明し、

今後、長崎の観光資源として活かす取り組みへの協力をおこなってまいります。

 

 

この場所を実際に見ると、巨大な石がすごいのはわかるけど、どうして日本庭園の跡地だと考えられるの?という疑問が湧いてくると思いますので、ここで少し解説を。

 

(注)以下の文章は、現地で五島先生の説明を聞いていた公園職員がメモと記憶を頼りに書いた受け売り解説です。万一解釈の取り違えなどありましたら何卒ご容赦ください。

 

 

日本庭園の石には「表」と「裏」がありますが、ここの石組みはすべての石が坂の下のほうに表面を見せています。

 

 休憩用の東屋の基礎と思われる跡もあり、この石庭を鑑賞するために作られたと考えられます。

 

 複数の巨石の表面にノミ跡が確認でき、元々あった巨石を彫ったり削ったりしたようです。

 

これだけの巨石ですから、長崎中から石工が動員され、技をふるったのでしょうか。

 

 一番大きな立石は、当時高さ約5mあったと推測されます。作庭された後の時代に、何らかの理由により2つに割られ上部を落とされたと考えられています。すぐ隣の大石と切り口の形が合うのが見てとれます。

 

何のためにこの石庭が作られたか?それはVIPをもてなす場所として作られたと考えられます。

 

かつては現在の長崎公園の敷地は一般人の入れない長崎奉行所の土地でした。そんな中、各地から来訪した賓客だけが足を踏み入れることが許されていました。

 

この石庭が作庭された時期は江戸時代というのが有力ですが、当時は空前の庭園ブーム。自慢の庭にお客様を招待してもてなし、地元長崎の凄さ(技術力)を見せつけたのでしょうか?

 

 

ともあれ元々その場所にある石を削って主体とし、他の石を付け足して構成する作庭法というのは日本で他には見られないそうです。

 

日本庭園とは本来鑑賞目的のもので、神々を祀る自然のパワースポットである、という思想からきています。

 

五島先生が名付けられた「巨石のにわ」。

 

“庭”の字をひらがな表記しているのも、中国由来のオープンスペース目的の庭園とは違うことを示すためです。

 

 

 

さあ、ここまで読んでくださった方はこの「巨石のにわ」に俄然興味が湧いてこられたのではないでしょうか?

 

歴史好きにとっては見過ごせない、未知の貴重なものが身近にあったという事実にワクワクが止まりません!

 

私もこの庭の詳細が解明される日を楽しみにしています。

 

日本の貴重な歴史遺産として、世界中から観光客が訪れる、名所になることを夢見て…(これ、言いすぎ?)

 

 

なお現在この石組みはいつでも鑑賞することができますので、長崎公園ご訪問の際にはお気軽にお立ち寄りくださいませ!!